ユニオンWAN集会を振り返って  

斉藤正美 | 2010/8/3

争議の経過から浮かんでくる課題については、すでに山口さんがまとめてくださっているのでそちらを参照していただくとして、わたしはwan集会に参加して思ったことをつらつらと書かせていただきたい。
フェミニズムは非正規労働や低賃金など労働または雇用上において女性に不利益が偏在していることに対しさまざまな運動や考察をしてきた。しかし、フェミニズム運動や非営利団体などにおける雇用上の不利益については、自らの足下の問題であるにもかかわらず、それは仕方ないこととして、考えることや改善を図ることを放置してきたところがある。
今回のWAN争議とユニオンWANの活動について思い返すと、重要だけど手つかずになってきた足下の問題に取り組めたんだなあという感慨が一番大きかった。
遠藤さんとカサイさんは、この問題にユニオンをつくって当事者として積極的に取り組んでこられた。これまで放置されてきたことに取り組めたのは、やはりすごいことだし、大きな一歩であると思う。
わたしはこれまで30年ほどフェミニズム運動に関わってきたが、ボランティア的に無償で働くことを長い間、当然あるいは仕方がないことと思ってやってきた。しかしこれまでそうして無償でやってきた仲間たちも最近は、有償で働く人をつくっていかねば運動自体が続かないという危機感から、NPO法人を設立するなどして有償で人を雇うところが出始めている。NPO法人WANも、そうしたフェミニストたちによる非営利団体の一つである。
しかし、多くの人がボランティアとして無償で働くのが当たり前であった文化の中に一部有償を入れるという形が多い非営利団体では、給料をいただいている側には、どんな不利益があろうともそれを言挙げするのははばかられるという状況が生まれかねない。わずかな給与で不当に長くきつく働くことが多いという現状はよく知られているのだが、その現状を問い直す行動を取る人あまりにも少ないのも事実だ。
さらに、女性学の大学教員が主体となっている団体に言挙げするのが困難な要素がある。わたしは、フェミニズム運動をやる中で、(フェミニズムをさらに探求したいと思って)大学院に進んだから、大学教員を教育する過程ではいまも徒弟制度的な面が残っており(悪い面だけではないことは無論だが)、上下関係の中で、就職先など将来の成果を見込んで無償労働に勤しむ構造になっていることも知っている。だからその延長線上でNPOにおいて教育機会や雇用機会を与えてあげているのに、どうしてユニオンなんかつくるのか、という発想が起きるのも理解できる。特に、十分な外部資金の準備がなく、理事らの自己資金持ち出しによる運営であればあるほど、目をかけてあげているのに、どうして恩を仇で返すのか、といった発想になるであろうことも理解できないわけではない。
使用者側の言い分や感情は十分に理解しつつも、それでも遠藤さんとカサイさんのユニオン活動を支援したのは、フェミニズムが外部の敵に立ち向かうために一致結束しようといって、自らの課題を放置する傾向が強いことに疑問を持ってきたことも関係している。フェミニズムが今取り組むべきは、男社会に闘うことばかりではない。むしろ、見えづらい、いや見たくない、女性間にある深刻な問題も放置するわけにはいかないと思っているからだ。
NPOが増えている昨今、フェミニズム系の団体だからといって労働問題がないわけではないことを表に出し、そうした問題の改善のために行動するユニオンWANの活動は、非営利活動の労働条件の向上にとっても、さらに、労働とフェミニズムという点でもきわめて重要な課題を孕んでいるとも思う。また、フェミニズム運動の足下の問題に取り組むことこそ、「個人的なことは政治的である」というフェミニズムの背骨となる活動だと思う。その意味で、遠藤さんとカサイさんの活動をささやかながらでも支援できたことをうれしく思う。
フェミニズムは、賃金が発生する労働としない労働の境界線がどこにあるのか、ということについて、かつて家事労働において追求した。その時は、賃金が発生するかしないかは、仕事の内容ではなく、主婦がするから無償になるのだと、単にだれが従事するかの違いにすぎないという結論を見出した。そして、「家事」は無償だけれども重要な「労働」であることを指摘し、「労働」概念自体に再考を迫るという成果を挙げた。
今回は、再生産労働のようにこれまで無償で担われてきた非営利活動やフェミニズム運動が社会貢献活動を公共的な労働とする流れの中でNPO法人化されるようになり、一部有償になることが増えてきたために、運動体や活動団体の中で不可視であった「労働」問題が見えやすくなったように思われる。そしてユニオン活動、ならびにWAN集会は、その「労働」問題のありかをさらに考えさせる機会となったのではないだろうか。
遠藤さん、カサイさんのWAN争議は、突然仕事を外す、退職勧奨を出すといった労働条件の変更から発したが、ユニオンWAN集会を終えて今思うのは、これはNPOやフェミニズム運動において前提になっているボランティア的働き方と有償労働との共存という問題についてメスを入れるいいチャンスなのではということだ。このままでは、NPOや運動体ではボランティアが半ば義務化された労働となってしまったり、その一方で、有償労働はあくまでも「おまけ」や、「お情け」によるものいう発想が残ったりしかねないからだ。
だが、ボランティア的無償労働と有償労働にどう折り合いをつけていくのか、どこからどこまでを「ボランティア」というのか。自発的に働くことを決めたと言っても、学校の先生に頼まれたから仕方なく働いたという場合は「ボランティア」と言えるのか、など考えなければならないことが多い。そもそも「ボランティア」労働とは何なのか、を考えていく機会にしたいと思う。
さらに、有償/無償「労働」のあり方について、必ずしなければならないけど、やりがいのない事務仕事を「有償労働」とし、事業計画や企画を考えるなどの中心業務を「無償労働」とするところもあるし、その反対のところもある。前者は従来の企業などが標準とする「労働」の価値基準とは相容れない面を持つ。非営利団体などでの労働問題を考えることは、従来の(有償/無償)「労働」のあり方を見直す契機にもなるのではないか。フェミニズム運動や非営利団体などにおける「労働」問題を突き詰めて考えることは、従来の「労働」や「働き方」そのものを再考する要素を孕んでいるのではないかとすら思えてくる。
さらに、この争議過程で見えてきたことに、事務労働は家事労働のように直接お金を生み出すものではないとういことで重視されないことがあった。「これまでも、ご勤務の時間に見合う仕事量はなかったのですが、(中略)カサイさんの能力と労働時間に見合った仕事を作っていくべきと考え、雇用を維持してきました。というカサイさんに対する理事の申し渡しからは事務労働および事務労働従事者の軽視がよく表れていた。この問題も考えなければならないことの一つだ。
最後に、遠藤さんや署名サイトに関わっている人たちがブロガーであったのは偶然ではないと思う。WANサイトがネットの公共性を無視し、ウェブ社会における情報公開への無理解もはなはだしく、自分たちの立場も公にせずクローゼットの中に閉じこもったかのような行動は、ウェブ社会の常識から外れているという思いを共有していたのだと思う。
そして、遠藤さん、カサイさんの強みは、NPO法人が取り組んでいるウェブ活動について、理事側よりもはるかに知識と技術が上回っていたことにあったと思う。
WANというウェブ空間を運営する場所で起きた労働問題であるWAN争議を、ブログやtwitterを通じて署名を求めたり連絡をとったりして支援した今回の活動は、ウェブ社会におけるフェミニズム運動のアプローチとしても新たな一歩であったのではないかと思った。いろいろと見えてきた課題について、さらに考えたり行動したりしていきたいと思っている。

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無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク

斉藤正美 | 2010/1/20

東大ジェンダーコロキアムがWANと共催で2010年1月13日に開催した「新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」」を動画で視聴し、無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トークというエントリーを書きました。
本サイトにアップしている「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会は、2006年12月16日にこのジェンダーコロキアムで行われたものです。山口智美さんとともに、上野さんに企画提案したものです。実施後、テープ起こしした内容や配布資料などをこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにアップしたものです。
今回のエントリーは、現時点でわたしがジェンダーコロキアムという場のイベントをみての感想を付け加えたものです。
なお、「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会をジェンダーコロキアムで行うことになった詳しいいきさつについては、山口智美さんの主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」に書かれているので、そちらを参照していただきたいと思います。

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WAN 掲載記事の紹介&書くことになった経緯

松本政輝 | 2010/1/20

先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はこちら:

よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)

笑おう、憤りと皮肉と拒絶とをこめて – tummygirl さん
そんならわたしは『平成オマンコ塾』で – ミヤマアキラさん
主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」 – 山口智美さん
無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク – 斉藤正美さん

書くことになった経緯
そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。
そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。
「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。
今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。
とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。
もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。

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主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」

山口智美 | 2010/1/18

この稿では、ジェンコロと私との関わりを振り返りつつ、今回のジェンコロでとくに顕著に見えてきたその権威性と問題点について考えてみようと思う。とくに、1)ジェンコロが内輪のネットワークの誇示の場になってしまっており、そのこと自体が権威となっていること、その中では多様性や異論といったものは排除されるだろうこと、2)「最先端」を代表しつつ、しかも同時に「一般」にも届くことをしているかのような位置付けであることが、権威発動の働きをしていること、3)そんな中、とくに今回の企画では、いわゆる「男女共同参画」の世界でも主流になったような、「意識偏重」言説が垂れ流され、構造的な権力問題などが不問にされる場となっていること、といった問題点を感じた。そのことについて述べてみたい。

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マサキチトセさんへの応答:「フェミニズム」の射程を狭めてしまう「ジェンダーフリー」擁護と、反「ジェンダーフリー」言説

斉藤正美 | 2009/7/27

「ジェンダーフリー」をめぐる保守派からの批判を受けたフェミニズムの対応には、実質的にクイアを排除する面があった。その現状を打開するために考えられる方策は、「男女平等」に戻るというのではなく、新たに「性の二元制」ならびに「異性愛制度」と「男性標準」を標準的なルールとする現在の文化や規範を見直し、「性にまつわるあらゆる形態の差別」を解消するという考え方を打ち立てること、さらに、それについての具体的な取り組みをフェミニズムを支持する人たちが積極的に始めることであると考えている。

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「フェミニズム」の射程を狭めてしまう「ジェンダーフリー」擁護と、反「ジェンダーフリー」言説

松本政輝 | 2009/7/22

前回「「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性」に書いたように、「ジェンダーフリー」概念を擁護する言説と「ジェンダーフリー」は有効ではないからきちんとフェミニズムの根本的問題に戻るべきだとする言説が、両方ともある種の罠にはまってしまってきたのが現状だ。というのも、「罠」はもちろんジェンダーフリー・バッシングが問題設定を「男女平等」「LGBTの権利獲得」「性の二元的慣習からの脱却」「教育におけるマイノリティに関する試み」など全ての論点をひっくるめて「ジェンダーフリー」として、そのうち特にクィアなもの、すなわち「同性愛・両性愛」に関する部分や「トランス」的な部分というものを攻撃することで同時に、「男女平等」という現代では反対する声を挙げづらいところにまで範囲を広げてバッシング可能にするような言説を作って来たことを意味する。そして少なからぬフェミニストがそれに対して反論を試みて来たが、それは前述の通り「ジェンダーフリーはこれこれこういうものなんだ」という形で「誤解を解く」ことでジェンダーフリー概念を擁護しようとする動き、そして逆に「ジェンダーフリーというのは結局のところ『男女平等』の言い換えに過ぎないのだから、『男女平等』に戻せばいい」という言説を作ろうとする動きの両方のパターンに陥って来た。

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「草の根フェミ」による「ジェンダー・チェック」批判とは?

斉藤正美 | 2009/7/21

『バックラッシュ!』の上野千鶴子氏インタビュー記事における「ジェンダーチェック」に関する記述を読んで、上野氏の「草の根フェミ」とは何を指すのか、具体的に述べられておらず、上野さんは女性運動について知らないで書いておられるのではないかと思った。同インタビューについては、先にmacska氏がセクシュアルマイノリティの扱いについて厳しく論じておられ、議論になっているところでもある。当ブログでは、上野氏の原稿を読み、フェミニズムが起こした「ジェンダーチェック」批判が表に出ていないことに改めて気づかされたので、ここでは、運動経験者として行政に関わった体験について記しておきたい。フェミニズム内部から行政主導の「ジェンダーチェック」が「検閲」にあたることを怖れて阻止されたケースが確かに起きていたことを明確に記しておく必要があるからだ。

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上野千鶴子さんの位置取り (「『女の品格』『おひとりさまの老後』から思うフェミニズムの行方」改題)

斉藤正美 | 2009/7/21

坂東眞理子さんの『女性の品格』、『親の品格』、それに上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』などフェミニストにより執筆された本がベストセラーの上位に食い込んでいる。お二人は自他共に認めるフェミニストである。そのお二人の本がベストセラーになっている。ウーマンリブの頃とは違い、フェミニズムが日本社会に受け入れられるようになったんだなあと思う今日この頃だ。ついでに言うなら二人とも富山県出身だこと!(その考察はまた改めて・・)

紀伊國屋書店単行本本週間ランキング(12月31日-1月6日)では、『おひとりさま』が3位、同新書ランキングで『女性の品格』が1位、『親の品格』が2位といずれもトップを占めている。文教堂(10分おき更新)では、総合で『女性の品格』が2位、『おひとりさま』が10位に入っている。

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「『ジェンダーフリー』ではなく『男女平等』だ」と言うことの危険性

松本政輝 | 2009/7/21

今日は、ブロガーの tummygirl さんによる「マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだす」というエントリ、及び小山エミさんの「上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性」を紹介する。

「ジェンダーフリー」という言葉を「性差の否定」だとして糾弾するバックラッシュ言説に対抗するために、少なからぬフェミニストが「フェミニズムは性差を否定しない」「男女平等を目指す」と言った対抗言説を構築してきた。しかしそこで想定されてしまったのは、フェミニズムが本来優先的に取り組むべき問題が、男女二元論の解体や撹乱ではなく、あくまで異性愛的で[[シスジェンダー]]的な「男女」の問題であるということだ。既存の男女二元論に対して疑義を挟もうとする者、そこに不快感や苦痛を感じる者などの存在を優先的に低い位置に置き、「フェミニズム」の外部へと押し出すようなかたちでバックラッシュへの対抗言説を構築しようとしているフェミニストは、そもそも LGBT の問題に関わる関わらない以前に、これまで男女二元論や異性愛のシステムを批判して来たフェミニズムの存在自体をも否定してしまっている。

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『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』の感想その2

斉藤正美 | 2009/7/20

前回のエントリーで取り上げた『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』伊田広行著(大月書店)批判の第二回である。今回は、同書で用いられている「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」「シングル」など出てくる概念に矛盾が多いのでその点をとりあげることにする。

女性/男性問題などについては、行政などが「ジェンダーフリー」や「男女共同参画」のほうをキャッチフレーズとすることが多くなった。しかし、「男女共同参画」は基本法での定義があるが、法律で定義されておらず、裁判で争われたこともない「ジェンダーフリー」や「ジェンダー」はわかりづらい。しかも、これらは日本社会でどのような意味で運用していくか、ということが今だ議論彷彿で定まっているとはいえない。そのため、論者によっていろいろな意味が特にネットであふれ出しており、批判を含めた多様な議論が生まれている。ネット世界でも「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」の意味への関心が高いわけである。

このような社会状況を考えると、上述の「初めて学ぶ」を謳った入門書は、大変注目されるところである。私がこのような批判を行うのは、「ジェンダー」ということばが類似の用語とあわせて、いかなる意味で活用されるのがいいか、ということを考えるからである。女性/男性問題の政策につながる議論として行っているのであり、決して言説にとどまる批判ではない。

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