フェミニズムの歴史と理論 http://www.webfemi.net Tue, 03 Aug 2010 01:22:12 +0000 http://backend.userland.com/rss092 en 続・カサイの気持ち ユニオンWAN書記長のカサイさんが、集会を終えての気持ちについて書いてくださいましたので掲載します。ユニオンWANブログに掲載されている「カサイの気持ち」もぜひあわせてお読みください(山口智美) 続・カサイの気持ち(カサイさん) 6月の集会は、わたしにとっては良い区切り、というか、それまでの忸怩たる思いが整頓できて感謝しています。あれから一ヶ月以上が経過しましたが、少なくともわたしのところには理事会側から何も連絡もアクションもありません。 WANの件は、今ではもうなんだか夢のように思います。 しかしながらわたしには「失業」という事実が厳然としてのしかかり、去年の今頃はぶつくさ文句言いながらも、遠藤さんといろいろ工夫しながら結構楽しく「働いて」いたんだなあ、とか思ったりしています。 わたしはいわゆる「所帯持ち」なんですが、男性のそれと女性の場合とでは、世間の認識が大きく異なることは実感しています。その「認識の異なり」に潜む問題点を探り指摘し、検討のうえ改善の指標を出すのがフェミニズムと思っていたのですが、WAN理事の方々の認識は世間一般のものとは対して違わなかったのねと感じざるを得ません。 男性か、女性か、未婚か既婚か、扶養の有無、そういった属性が「働きかた、働かせ方」に大きく影響しています。この属性は一般の企業ではもちろん、NPOをはじめとする非営利団体や研究組織においては、更に大きく影響しているのでは、と考えています。何かを引き替えに不当な我慢を強いられる状況というのはおかしい。そういったことに気づく人がもっと多くなれば、そしてそこから声を上げる一歩につながる行動を今後も意識していきたいとわたしは考えています。 斉藤さんの文章を拝読して想起したのは、熊沢誠氏が著書や講演などでよく出される「強制された自発性」という問題です。使用者側の持ち出す過大過重なノルマや目標に、本心では応じたくないけれども、雇用の維持や査定、職場での人間関係への影響を危惧して「自発的に」応じる状況、といっていいかと思います。 企業のみならず、NPOや研究団体でも、こういう状況は水面下に多く広く存在していると、自らを省みても思います。 わたしは、「カサイの気持ち」でも少し書いたように、雇用を維持することで支えなければならない生活があるがために、理事たちの要求に対して、不当性や不快感を感じていても、多少のことなら、と飲んでいたこともあったと思います。どこからが不当なのか、その線引きを自ら行うことに不安があったのも確かでした。労働運動に関わるものとして情けないのですが。遠藤さんが、そこをしっかり見極め指摘し、臆することなく理事にきっぱりと宣言、通告してくださったことで目が覚めたことも何度もあります。本当に感謝しています。 また、多くの方々からのご支援をいただけたことは何よりの励みでした。改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。また、サイトに掲載していただいた報告を読み、今回の争議は、ウェブから始まりウェブで広がったということを改めて認識した次第です。ウェブが人々を繋ぐ良きツールとして活用できるための、様々な可能性や方向性について、いろいろと考えを巡らすことができました。冒頭で「夢のよう」と表現しましたが、一連の騒動が夢のように思われても、決して夢でなく確かなものとして今もあることが、これからの励みになると信じています。 ありがとうございました。 http://www.webfemi.net/?page_id=896 ユニオンWAN集会を振り返って ユニオンWAN集会での議論ので要点や争議の経過から浮かんだ課題については、すでに山口智美さんがまとめてくださっているので参照していただくとして、わたしはwan集会に参加して思ったことをつらつらと書かせていただきたい。 フェミニズムは非正規労働や低賃金など労働または雇用上において女性に不利益が偏在していることに対しさまざまな運動や考察をしてきた。しかし、フェミニズム運動や非営利団体などにおける雇用上の不利益については、自らの足下の問題であるにもかかわらず、それは仕方ないこととして、考えることや改善を図ることを放置してきたところがある。 今回のWAN争議とユニオンWANの活動について思い返すと、重要だけど手つかずになってきた足下の問題に取り組めたんだなあという感慨が一番大きかった。 遠藤さんとカサイさんは、この問題にユニオンをつくって当事者として積極的に取り組んでこられた。これまで放置されてきたことに取り組めたのは、やはりすごいことだし、大きな一歩であると思う。 わたしはこれまで30年ほどフェミニズム運動に関わってきたが、ボランティア的に無償で働くことを長い間、当然あるいは仕方がないことと思ってやってきた。しかしこれまでそうして無償でやってきた仲間たちも最近は、有償で働く人をつくっていかねば運動自体が続かないという危機感から、NPO法人を設立するなどして有償で人を雇うところが出始めている。NPO法人WANも、そうしたフェミニストたちによる非営利団体の一つである。 しかし、多くの人がボランティアとして無償で働くのが当たり前であった文化の中に一部有償を入れるという形が多い非営利団体では、給料をいただいている側には、どんな不利益があろうともそれを言挙げするのははばかられるという状況が生まれかねない。わずかな給与で不当に長くきつく働くことが多いという現状はよく知られているのだが、その現状を問い直す行動を取る人あまりにも少ないのも事実だ。 さらに、女性学の大学教員が主体となっている団体に言挙げするのが困難な要素がある。わたしは、フェミニズム運動をやる中で、(フェミニズムをさらに探求したいと思って)大学院に進んだから、大学教員を教育する過程ではいまも徒弟制度的な面が残っており(悪い面だけではないことは無論だが)、上下関係の中で、就職先など将来の成果を見込んで無償労働に勤しむ構造になっていることも知っている。だからその延長線上でNPOにおいて教育機会や雇用機会を与えてあげているのに、どうしてユニオンなんかつくるのか、という発想が起きるのも理解できる。特に、十分な外部資金の準備がなく、理事らの自己資金持ち出しによる運営であればあるほど、目をかけてあげているのに、どうして恩を仇で返すのか、といった発想になるであろうことも理解できないわけではない。 使用者側の言い分や感情は十分に理解しつつも、それでも遠藤さんとカサイさんのユニオン活動を支援したのは、フェミニズムが外部の敵に立ち向かうために一致結束しようといって、自らの課題を放置する傾向が強いことに疑問を持ってきたことも関係している。フェミニズムが今取り組むべきは、男社会に闘うことばかりではない。むしろ、見えづらい、いや見たくない、女性間にある深刻な問題も放置するわけにはいかないと思っているからだ。 NPOが増えている昨今、フェミニズム系の団体だからといって労働問題がないわけではないことを表に出し、そうした問題の改善のために行動するユニオンWANの活動は、非営利活動の労働条件の向上にとっても、さらに、労働とフェミニズムという点でもきわめて重要な課題を孕んでいるとも思う。また、フェミニズム運動の足下の問題に取り組むことこそ、「個人的なことは政治的である」というフェミニズムの背骨となる活動だと思う。その意味で、遠藤さんとカサイさんの活動をささやかながらでも支援できたことをうれしく思う。 フェミニズムは、賃金が発生する労働としない労働の境界線がどこにあるのか、ということについて、かつて家事労働において追求した。その時は、賃金が発生するかしないかは、仕事の内容ではなく、主婦がするから無償になるのだと、単にだれが従事するかの違いにすぎないという結論を見出した。そして、「家事」は無償だけれども重要な「労働」であることを指摘し、「労働」概念自体に再考を迫るという成果を挙げた。 今回は、再生産労働のようにこれまで無償で担われてきた非営利活動やフェミニズム運動が社会貢献活動を公共的な労働とする流れの中でNPO法人化されるようになり、一部有償になることが増えてきたために、運動体や活動団体の中で不可視であった「労働」問題が見えやすくなったように思われる。そしてユニオン活動、ならびにWAN集会は、その「労働」問題のありかをさらに考えさせる機会となったのではないだろうか。 遠藤さん、カサイさんのWAN争議は、突然仕事を外す、退職勧奨を出すといった労働条件の変更から発したが、ユニオンWAN集会を終えて今思うのは、これはNPOやフェミニズム運動において前提になっているボランティア的働き方と有償労働との共存という問題についてメスを入れるいいチャンスなのではということだ。このままでは、NPOや運動体ではボランティアが半ば義務化された労働となってしまったり、その一方で、有償労働はあくまでも「おまけ」や、「お情け」によるものいう発想が残ったりしかねないからだ。 だが、ボランティア的無償労働と有償労働にどう折り合いをつけていくのか、どこからどこまでを「ボランティア」というのか。自発的に働くことを決めたと言っても、学校の先生に頼まれたから仕方なく働いたという場合は「ボランティア」と言えるのか、など考えなければならないことが多い。そもそも「ボランティア」労働とは何なのか、を考えていく機会にしたいと思う。 さらに、有償/無償「労働」のあり方について、必ずしなければならないけど、やりがいのない事務仕事を「有償労働」とし、事業計画や企画を考えるなどの中心業務を「無償労働」とするところもあるし、その反対のところもある。前者は従来の企業などが標準とする「労働」の価値基準とは相容れない面を持つ。非営利団体などでの労働問題を考えることは、従来の(有償/無償)「労働」のあり方を見直す契機にもなるのではないか。フェミニズム運動や非営利団体などにおける「労働」問題を突き詰めて考えることは、従来の「労働」や「働き方」そのものを再考する要素を孕んでいるのではないかとすら思えてくる。 さらに、この争議過程で見えてきたことに、事務労働は家事労働のように直接お金を生み出すものではないとういことで重視されないことがあった。「これまでも、ご勤務の時間に見合う仕事量はなかったのですが、(中略)カサイさんの能力と労働時間に見合った仕事を作っていくべきと考え、雇用を維持してきました。というカサイさんについての理事の説明からは事務労働および事務労働従事者の軽視がよく表れていた。この問題も考えなければならないことの一つだ。 最後に、遠藤さんや署名サイトに関わっている人たちがブロガーであったのは偶然ではないと思う。WANサイトがネットの公共性を無視し、ウェブ社会における情報公開への無理解もはなはだしく、自分たちの立場も公にせずクローゼットの中に閉じこもったかのような行動は、ウェブ社会の常識から外れているという思いを共有していたのだと思う。 そして、遠藤さん、カサイさんの強みは、NPO法人が取り組んでいるウェブ活動について、理事側よりもはるかに知識と技術が上回っていたことにあったと思う。 WANというウェブ空間を運営する場所で起きた労働問題であるWAN争議を、ブログやtwitterを通じて署名を求めたり連絡をとったりして支援した今回の活動は、ウェブ社会におけるフェミニズム運動のアプローチとしても新たな一歩であったのではないかと思った。いろいろと見えてきた課題について、さらに考えたり行動したりしていきたいと思っている。 http://www.webfemi.net/?page_id=881 ユニオンWAN集会を振り返って   争議の経過から浮かんでくる課題については、すでに山口さんがまとめてくださっているのでそちらを参照していただくとして、わたしはwan集会に参加して思ったことをつらつらと書かせていただきたい。 フェミニズムは非正規労働や低賃金など労働または雇用上において女性に不利益が偏在していることに対しさまざまな運動や考察をしてきた。しかし、フェミニズム運動や非営利団体などにおける雇用上の不利益については、自らの足下の問題であるにもかかわらず、それは仕方ないこととして、考えることや改善を図ることを放置してきたところがある。 今回のWAN争議とユニオンWANの活動について思い返すと、重要だけど手つかずになってきた足下の問題に取り組めたんだなあという感慨が一番大きかった。 遠藤さんとカサイさんは、この問題にユニオンをつくって当事者として積極的に取り組んでこられた。これまで放置されてきたことに取り組めたのは、やはりすごいことだし、大きな一歩であると思う。 わたしはこれまで30年ほどフェミニズム運動に関わってきたが、ボランティア的に無償で働くことを長い間、当然あるいは仕方がないことと思ってやってきた。しかしこれまでそうして無償でやってきた仲間たちも最近は、有償で働く人をつくっていかねば運動自体が続かないという危機感から、NPO法人を設立するなどして有償で人を雇うところが出始めている。NPO法人WANも、そうしたフェミニストたちによる非営利団体の一つである。 しかし、多くの人がボランティアとして無償で働くのが当たり前であった文化の中に一部有償を入れるという形が多い非営利団体では、給料をいただいている側には、どんな不利益があろうともそれを言挙げするのははばかられるという状況が生まれかねない。わずかな給与で不当に長くきつく働くことが多いという現状はよく知られているのだが、その現状を問い直す行動を取る人あまりにも少ないのも事実だ。 さらに、女性学の大学教員が主体となっている団体に言挙げするのが困難な要素がある。わたしは、フェミニズム運動をやる中で、(フェミニズムをさらに探求したいと思って)大学院に進んだから、大学教員を教育する過程ではいまも徒弟制度的な面が残っており(悪い面だけではないことは無論だが)、上下関係の中で、就職先など将来の成果を見込んで無償労働に勤しむ構造になっていることも知っている。だからその延長線上でNPOにおいて教育機会や雇用機会を与えてあげているのに、どうしてユニオンなんかつくるのか、という発想が起きるのも理解できる。特に、十分な外部資金の準備がなく、理事らの自己資金持ち出しによる運営であればあるほど、目をかけてあげているのに、どうして恩を仇で返すのか、といった発想になるであろうことも理解できないわけではない。 使用者側の言い分や感情は十分に理解しつつも、それでも遠藤さんとカサイさんのユニオン活動を支援したのは、フェミニズムが外部の敵に立ち向かうために一致結束しようといって、自らの課題を放置する傾向が強いことに疑問を持ってきたことも関係している。フェミニズムが今取り組むべきは、男社会に闘うことばかりではない。むしろ、見えづらい、いや見たくない、女性間にある深刻な問題も放置するわけにはいかないと思っているからだ。 NPOが増えている昨今、フェミニズム系の団体だからといって労働問題がないわけではないことを表に出し、そうした問題の改善のために行動するユニオンWANの活動は、非営利活動の労働条件の向上にとっても、さらに、労働とフェミニズムという点でもきわめて重要な課題を孕んでいるとも思う。また、フェミニズム運動の足下の問題に取り組むことこそ、「個人的なことは政治的である」というフェミニズムの背骨となる活動だと思う。その意味で、遠藤さんとカサイさんの活動をささやかながらでも支援できたことをうれしく思う。 フェミニズムは、賃金が発生する労働としない労働の境界線がどこにあるのか、ということについて、かつて家事労働において追求した。その時は、賃金が発生するかしないかは、仕事の内容ではなく、主婦がするから無償になるのだと、単にだれが従事するかの違いにすぎないという結論を見出した。そして、「家事」は無償だけれども重要な「労働」であることを指摘し、「労働」概念自体に再考を迫るという成果を挙げた。 今回は、再生産労働のようにこれまで無償で担われてきた非営利活動やフェミニズム運動が社会貢献活動を公共的な労働とする流れの中でNPO法人化されるようになり、一部有償になることが増えてきたために、運動体や活動団体の中で不可視であった「労働」問題が見えやすくなったように思われる。そしてユニオン活動、ならびにWAN集会は、その「労働」問題のありかをさらに考えさせる機会となったのではないだろうか。 遠藤さん、カサイさんのWAN争議は、突然仕事を外す、退職勧奨を出すといった労働条件の変更から発したが、ユニオンWAN集会を終えて今思うのは、これはNPOやフェミニズム運動において前提になっているボランティア的働き方と有償労働との共存という問題についてメスを入れるいいチャンスなのではということだ。このままでは、NPOや運動体ではボランティアが半ば義務化された労働となってしまったり、その一方で、有償労働はあくまでも「おまけ」や、「お情け」によるものいう発想が残ったりしかねないからだ。 だが、ボランティア的無償労働と有償労働にどう折り合いをつけていくのか、どこからどこまでを「ボランティア」というのか。自発的に働くことを決めたと言っても、学校の先生に頼まれたから仕方なく働いたという場合は「ボランティア」と言えるのか、など考えなければならないことが多い。そもそも「ボランティア」労働とは何なのか、を考えていく機会にしたいと思う。 さらに、有償/無償「労働」のあり方について、必ずしなければならないけど、やりがいのない事務仕事を「有償労働」とし、事業計画や企画を考えるなどの中心業務を「無償労働」とするところもあるし、その反対のところもある。前者は従来の企業などが標準とする「労働」の価値基準とは相容れない面を持つ。非営利団体などでの労働問題を考えることは、従来の(有償/無償)「労働」のあり方を見直す契機にもなるのではないか。フェミニズム運動や非営利団体などにおける「労働」問題を突き詰めて考えることは、従来の「労働」や「働き方」そのものを再考する要素を孕んでいるのではないかとすら思えてくる。 さらに、この争議過程で見えてきたことに、事務労働は家事労働のように直接お金を生み出すものではないとういことで重視されないことがあった。「これまでも、ご勤務の時間に見合う仕事量はなかったのですが、(中略)カサイさんの能力と労働時間に見合った仕事を作っていくべきと考え、雇用を維持してきました。というカサイさんに対する理事の申し渡しからは事務労働および事務労働従事者の軽視がよく表れていた。この問題も考えなければならないことの一つだ。 最後に、遠藤さんや署名サイトに関わっている人たちがブロガーであったのは偶然ではないと思う。WANサイトがネットの公共性を無視し、ウェブ社会における情報公開への無理解もはなはだしく、自分たちの立場も公にせずクローゼットの中に閉じこもったかのような行動は、ウェブ社会の常識から外れているという思いを共有していたのだと思う。 そして、遠藤さん、カサイさんの強みは、NPO法人が取り組んでいるウェブ活動について、理事側よりもはるかに知識と技術が上回っていたことにあったと思う。 WANというウェブ空間を運営する場所で起きた労働問題であるWAN争議を、ブログやtwitterを通じて署名を求めたり連絡をとったりして支援した今回の活動は、ウェブ社会におけるフェミニズム運動のアプローチとしても新たな一歩であったのではないかと思った。いろいろと見えてきた課題について、さらに考えたり行動したりしていきたいと思っている。 http://www.webfemi.net/?p=874 「非営利団体や市民運動における雇用や無償・ボランティア労働を考えるーユニオンWANの事例から」 集会から浮かんだ課題と感想 この集会には私は斉藤正美さんとともに主催者の一員として関わり司会をつとめたが、そこでの遠藤さん、カサイさん、および会場の皆様との議論から私が重要だと思ったこと、および自分自身の感想などをまとめてみたい。別エントリにて集会で議論されたテーマやポイントなどはリストアップする形で紹介したので、それもご参照のほど。 争議の経緯から浮かんだ課題 遠藤さん、カサイさんから争議の経過を伺って、まず印象に残るのが、雇用者であったWAN理事会から被雇用者であった遠藤さん、カサイさんへの事前相談のなさだった。いわばこれは徹底しており、重要な雇用をめぐる決定事項ーたとえば12月の遠藤さんに対する突然の仕事内容変更と、それにともない給与や時間数を減らすという通告にしろ、1月31日の退職勧奨にしろ、何の事前相談もなかった。12月の場合はユニオンを通さず急に行われたミーティングで突然と通告され、退職勧奨に至っては深夜に突然と送られたメールによる通知である。また、仕事内容についても、被雇用者への相談が欠落したまま事業内容が決定されていったようだった。業者の変更の決定に関しても、理事がネットを理解していないにもかかわらず、本来ネット関連の担当業務についていたはずの遠藤さんには事前相談もされない。また、お二人の雇用前の決定ではあるが、サイト立ち上げに至るまでの計画もずさんであり、その結果、被雇用者が過剰な労働をせざるをない状態に陥ったという。 そして、理事会が仕事内容を理解していないために、指揮命令系統も機能しておらず、被雇用者だった遠藤さんやカサイさんが自ら仕事を考え、つくりだし、整理してすすめていた状態だったという。上司が何もわかっておらず、そのために現場の人たちが苦労しているが、話しあおうにも話しが食い違ってすすままいということがWANのみならず、多くのNPOで起きているということだった。とくにWANの場合、上にたっている人たちが仕事内容をわかっていないにもかかわらず、わかっている雇用者への事前相談が欠落したまま、その上の人たちが事業の決定権をもつ問題が顕著にでた事例だったのかとも思う。また、非営利団体やNPOによくある問題だが、責任のありかが曖昧になりがちであり、それが指揮命令系統の不全にもつながっていたようにも思われた。 また、カサイさんが主に担っていた一般事務というルーチンな仕事は非営利団体において必須なのだが、その内容が理解されず、軽視され評価されなかった。2月14日付けの理事会発行文書における「実は、これまでもご勤務の時間に見合う仕事量はなかったのですが、サイトを活性化し会員や寄付を増やす努力をして、Bさんの能力と労働時間に見合った仕事を作って行くべきと考え、雇用を維持してきました」という記載は、いかに理事会がカサイさんの仕事内容を理解せず、軽視していたかが如実に表れている。本来、こういった「シャドウワーク」的な従来評価をされなかった労働(頻繁に女性が担ってきた労働でもある)を問い直してきたはずのフェミニズムなのだが、WAN理事会の場合、足下の自らの団体に関しては見えなくなってしまったのだろうか。非営利団体やNPOでは主婦的パートの存在が前提とされがちで、事務のひとたちの使い捨てが行われている状態が広くみられることも会場から指摘された。 非営利団体によくみられるもう一つの状況として、有償労働と無償労働のひとが同じ団体内に同居していることが挙げられた。カサイさんによれば、WAN争議の中では、事務所閉鎖後、在宅勤務をさせられない理由として、「無償ボランティアとの整合性」という理由を使われた。無償でこつこつやってくれる人がいるから、その人たちに申し開きができないのように言われたという。「整合性」を理由に有償の労働者として一度雇った人を切るというのは論外であるが、このことについてカサイさんが、「賃金の発生の有無が仕事が上等だとか評価されるとかえらいとか、そういうことを意識してしまうような仕事配分がされていたのかとも思うと同時に、必要なんだが重要視されない事務という仕事はなんて軽んじられているのか」と言われたことが印象に残った。もちろん無償労働の問題はあるが、それについての責任は、有償の被雇用者であった遠藤さんやカサイさんがつくったユニオンWANではなく、雇用者であるWAN理事会のほうに当然ながらあるべき問題だし、今後、WAN理事会には、とくに権力関係がある中の無償労働の問題について、よくよく考えて運営していっていただきたいと強く思う。また、これは多くのNPOで発生している問題であろうし、今後の議論を続け、模索していくことが必要だと思う。 こういった労働をめぐる問題が多々あるなか、「善意」に基づき運営しているということになっているNPOにおいて、実際には存在する権力関係が隠蔽されがちになる。善意でやっている、みんながんばっているのだから、ユニオンをつくったり、労使交渉をしたりするのはもってのほか、「和気あいあい」の雰囲気を壊してしまうとか、本来のNPOの目的とあわない、というように捉えられてしまいがちだ。NPOだからすばらしいなどということはなく、集会の会場発言でされたように、NPOだからかえって最悪になる、ということもある。NPOにおけるやりがいの搾取やパワハラなどの問題が見えなくされがちということだ。「和気あいあいであるべき」といった考え方の裏で隠されてしまいがちな権力関係を常に意識する必要があるという複数の指摘がなされた。 もうひとつ、WAN争議の事例からみえてきたことは、理事が使用者としての責任および労働をめぐる交渉や争議についても理解が浅いということがある。団交とは何か、何のために文書を発表するのかなどといった根本の理解がずれているとしかいいようがなく、そのために団交を何度か開いても話がすすまなかったり、解決にむけて発行しているとは思えない文書が送付されたりということが重なっていったように思われる。WAN理事の多数をしめる大学教員の場合、大学内では雇用関係は大学当局が対応してくれるのだろうが、その人たちがNPOにはいり「雇用者」側にたった際、雇用者としての責任について真剣に捉え、学び、実践すべきだと思う。 遠藤さんもカサイさんの話しは、ユニオンWANの事例は特殊のようでありながら、実はほかの多くのNPOで起きている労働問題と共通性があるということを強く示唆していた。また、その背景には、個々の資質などではなく、官、大学非正規などの制度的問題や、および大学における労働問題があるという指摘もあった。大学における徒弟制度の存在、そして、大学教員やNPOに関わる人たちが活動を「善意」でやってるという前提がやりづらさを招く。経済的にもぎりぎりでやっている団体が多い中、目的達成が優先され、労使問題はあとまわしにされがちだ。内側から声をあげようとするとネガティブキャンペーンととられたりしてしまう。そして、NPOにおける被雇用者は1人や2人など、人数が少ない場合が多く、孤立しているケースも多い。これらの問題が会場からも挙げられ、問題の可視化、ネットワークづくりの重要性が共通の課題として浮かび上がったように思う。 ネットに関連して 今回のWANの場合、主要事業がウェブサイトの運営だったということがあり、ウェブ社会における市民運動の現状というのも、もうひとつのテーマだった。今回の集会は労働に焦点をあて、ネットをめぐる問題についてはそうつっこむことはできなかったものの、いくつかの問題や課題、可能性も指摘されたと思う。一つにはネットに詳しくない人たちがトップにたって、サービスの提供の側にまわることで、現場の人たちがひじょうに苦労し、過剰な労働を強いられがちな問題が指摘された。また、WANの場合はウェブ上での活動をする団体にもかかわらず、争議についての情報は一切自サイトには出さず、水面下に隠したままになっている。これはネットの公共性を無視した状態ではないかという指摘もあった。そして、公共性に関連する課題として、WANの運営方針(例えば編集権限のありか、基準など)がひじょうに曖昧だということもある。 そして、今回のユニオンWANの争議におけるtwitterなどの新しいツールの影響も指摘された。ユニオンWAN運動が、当該がまったく顔を知らない人たちから広範な支援を集め、署名運動なども知り合いだとか組合ネットワークなどの外からはじまったこと。これはWANおよびユニオンWANがウェブ上で活動していたこと、およびtwitterなどの新たなツールの存在も大きかったのではないか。また、ユニオンWANの支援がウェブ上で広がったことには、ウェブ上は水面下にはいっていた理事会側に比べ、ユニオン側が情報公開のスタンスをとっていたことが大きいのではという意見もでた。反面、団交において、ユニオン側の支援者がツイッター中継を行ったことが問題になったこともあった。集会、会議などの場でtwitter中継が行われることもふえてきた昨今、このような新たなツールの使い方、および参加者たちの発信をコントロールすべきなのか、そしてそれはできるのか、などについても議論が必要になってくるのだろう。 私はなぜ争議を支援したのか 私自身は、フェミニズムとネットをめぐる問題に興味をもっていた頃にWANオープニング集会が開かれ、それに出席して違和感を感じ、それをブログエントリとして書いたところから、WANの動向は注目してきた。とはいえ、サイト自体を頻繁に見ていたというわけではなく、見るからに問題が起きそうな状況の中で今後どうなってしまうのだろうという面からの注目だった。そして1月になり、争議がはじまり、予想どおりの展開になってしまったと思った。ユニオンWANの投稿記事がWANサイトに投稿され、それが削除された経過については、後からtwitterのログを見て知った。(ちょうどその時旅行中だった。)そして、ユニオンWANのブログを見て、すぐに遠藤さんに支援の意思を示すメールを送った。それが支援活動にかかわるきっかけとなった。遠方在住だったため団交にはまったく参加できなかったが、その後、署名活動をほかの呼びかけ人たちとはじめ、そして今回の集会を開くに至った。集会の中でもいわれていたが、遠藤さんのこともカサイさんのことも全く知らず、お会いしたこともなかった。遠藤さんには5月に初めて会い、カサイさんに至ってはこの集会で初めてお会いしたのだった。振り返ってみれば、ネットがなければありえなかった支援ともいえる。 私自身との関連でいえば、日本のNPOでの事務局労働者としての経験もあり、私自身も経験した事務局労働に共通する課題をWANにも見た気がした。例えばネットが事務局業務にはいってくるが、上の人たちやスタッフが皆ネットを使えるわけではないことから、限定された「ネットが使える」という位置付けになる人たちに作業が集中しがちな件、そして、事務仕事が評価されづらい件などである。また、ほかの運動体においても無償労働をしてきたこともあり、無償労働で使われ、ぼろぼろになって、運動からひいていってしまう仲間たちもたくさん見てきた。反対に、WANに関わる多くの人たちと同様に、自分自身がフェミニズム研究者であるという面から、フェミニズム組織の足下の重要な問題を可視化せねばという思いからも、この争議を支援する必要を強く感じた。そして、ネットユーザーとして、ウェブ上で活動をしてるWANがあまりにネットの公共性を無視した活動をしていたことにも強い違和感を感じた。そして、今でも、WANにはしっかり争議の経緯について公表できるところはしてほしいと思っている。 集会を終えて この6.6集会を企画したときには、まだ争議真っ最中の段階で、いったいどういう位置付けの集会になるのかまったく読めていなかった。集会前に解決に至り、争議報告集会となったこと、そしてこの集会が争議のとりあえずのまとめ、といった位置付けになったことは本当によかったと思っている。そんな中、はるばる京都から集会にいらしていただいた遠藤さんとカサイさんに心から感謝したい。同時に、「恫喝訴訟」ともとれる内容証明が理事会代理人より届いてから集会まではそう日がたっておらず、争議そのものの疲れに加え、解決した後にこのような内容証明を送られてきた遠藤さんやカサイさんのご心労とストレスに関して、集会を準備する中で間近に聞いてきた。こういった内容証明を送ってきた理事会について、何を考えているのか、正直いってあきれはてたし、怒りを感じた。その後の展開は幸い何も起きておらず、ぜひこのまま何もないことを願うし、理事会には強くそれをお願いしたいと思う。それと同時に、労働者に職を与えておきながら、ほんの数ヶ月でそれを奪うに至ったという事実の重さは忘れないでいただきたいと願っている。 最後に、集会にご参加いただいた皆様に感謝したい。皆様からの質疑応答、グループワーク、そして全体議論などでのご意見やご経験談は貴重だったと思う。そして、会場設営などのお手伝いをいただいた、ミヤマアキラさん、マサキチトセさん、ほか集会後の交流会でいろいろお手伝いいただいた皆様、本当にありがとうございました。 http://www.webfemi.net/?page_id=812 WAN争議報告集会「非営利団体や市民運動における雇用や無償・ボランティア労働を考える-ユニオンWANの事例から」 議論の要点報告 NPO法人WAN(ウィメンズアクションネットワーク)をめぐる労働争議が2010年1月に始まり、5月に解決した。この争議についてはユニオンWANのブログを参照。また、この争議を支援する署名運動も行われ、170名もの方々からご署名をいただいた。署名運動のブログはこちら。 このユニオンWANの争議を事例として、非営利団体における雇用・労働問題を考えるという趣旨の集会を2010年6月6日に、東京・田町の女性と仕事の未来館で開催した。講師として、ユニオンWAN委員長の遠藤礼子さんと、同ユニオン書記長のカサイさんにいらしていただき、お二人のお話を中心としながら、質疑応答、グループワークや全体議論などを行った。遅くなったが以下がその報告である。全部で4時間の長丁場な集会だったのだが、箇条書きにて議論の要点を記しておく。 集会では、まず遠藤礼子さんとカサイさんお二人が関わって制作された、DVD「均等社会は夢ではない」上映から開始。ユニオンにはいって労働者が職場を変えていくドラマが上映された。(カサイさんは女優のひとりとして登場) その後、ユニオンWANの遠藤礼子さん、カサイさんのお話があり、質疑応答、グループワーク、全体討論という順に集会はすすんだ。 遠藤礼子さん 「WAN争議の経過と要点」 遠藤さんが採用されたのは2009年3月半ば。サイトの6月の立ち上げが決まっていたが、その時点で2ヶ月くらいしかないのに何も決まっておらずリアルな話しが何もない状況だった。そんな中、遠藤さんは一ヶ月は業者との交渉に費やさねばならず、実際のウェブサイトづくりには一ヶ月しかなかったという。例えばわかりやすい事例として、雇用された当初、ショッピングコーナーをつくるという話しがあったが、具体的に何を売るのか、在庫管理や発送は誰がするのかなども何も決まっていないのに、業者の見積もりだけがでていたような状態だった。 ネットというものが理解できていない理事と話が噛み合ない状況があった。 NPOではパワハラが起きたり、上司や理事が何もわかっていない中、現場の人がすごく苦労していたり、話が食い違ってしんどい思いをしている事例というのは、最近の労働相談でも気になっていた。それをまさに自分たちがリアルに体験した感じだ。 当初からいろいろなトラブルがあったこともあり、カサイさんとともにユニオンをつくり、文書を出したり団交を行ったりしていた。組合の要求としては、カサイさんの賃上げ要求、一時金、有給休暇の要求、過剰な作業量指示がパワハラにあたることの指摘など。だが、理事会側からの返答が遅いときが多かった。 そんな中、12月11日に理事長と副理事長3人が突然事務所に仕事の話があるからとやってきて、今まで遠藤さんがやってきた仕事は全部業者にやってもらうと言われた。解雇という事かといったら、解雇ではない、違う仕事をしてもらいたいと、組合も通さず突然にいわれた。今までと違う仕事をし、給料も下がり、時間数も減らせという要求はのめない、まず撤回してくれ、事前に相談するのは当然だろうと主張し、その場は物別れに終わった。そして、ユニオンでアウトソーシング撤回せよという要求を12月14日にだした。その後、非公式メールで先日の話しは誤解だといわれたが、25日に理事が5名ほど事務所にきて、11日と同じ話をされた。アウトソーシングではなく業者を変えただけだ、業者を変えたら結果としてそうなってしまったのだ、すでに決まったことですから、という説明だった。 WAN理事会としては、正月企画として新年にかわる瞬間に「おめでとう」と画面が変わるような企画をやりたかったらしい。業者は24時間体制で対応するからやってくれるが、年末年始に帰省する遠藤さんにはそれができないからという理由で何の相談もなく仕事を外された。しかしそれは事前にいってもらえれば、タイマーかけておけば簡単にできたことだ。 1/1に、新春爆笑トーク企画の広告がどんとでて、理事長からの新年おめでとう挨拶がでていた。ここで決意し、1月4日にユニオン立ち上げの原稿を書いてWANサイトにアップした。「ユニオンぼちぼち」のようなかんじで登録したのだが、そのうち削除された。「ぼちぼち」が自分の争議のことを書いているのに、WANはダメというダブルスタンダードはまさかないだろうと思ったが、5時間後に消された。そして争議が始まった。 WANサイトへのユニオンWAN投稿へのアクセス数が5時間くらいで800にものぼっていた。こんなに瞬間的に掲載情報が広まったのはtwitterがあったからだと思う。 その後団交を1月から2月にかけて3度行ったが、具体的な交渉になかなか至らなかった。理事会が読み上げた事情説明文書には細かい間違いがかなりあったし、遠藤さんを批判する内容だった。 2月2日に団交があり、労働条件について話しあう予定だった。だが、その2日前の1月31日の深夜、事務所を閉鎖することにしたので退職していただきたいというメールが突然届いた。今後の労働条件の話をする2日前にやめてくださいと送ってくるとは何ということと意表をつかれた。 1月からは仕事を干されていたが、給料は支払われてきた。2月12日の団交の際、ユニオンの支援者が理事会のみならずユニオン側も知らない中でツイッター中継をしたが、そのことで理事会は怒っており、問題解決するまでは団交をしないといってきた。その後、団交がないまま給与は支払われている中、非公式なコンタクトがあり事務折衝を行った。そこでユニオンが解決への道筋を提示。そこで労働委員会のあっせんをすすめた。 あっせんで、理事会側の全面謝罪を勝ち取ったと思っている。解決金額(40万)に関しては残念ながら譲った。とにかく謝罪が重要だったからだ。金額は3ヶ月ぶんの給与にあたり、これは通常の争議の場合、ほぼ一年分とれて労働者側が勝利と考えることと、WAN理事たちの莫大な年収を考えれば、少額としかいいようがない。交渉相手に応じてもちろん要求額は変えるが、WAN理事の場合は莫大な年収をもつ人たちだった。 訴訟になるかも、と考えさせられる局面が争議のなかで2回あったが、本当にこわさを感じた。「恫喝訴訟」の内容証明がきたときには本当にこわかったし、あまりに後味が悪い争議の終わり方だ。 集団無責任という言葉を思い出す。集団になると無責任になってしまい、無根拠な自信と、権力の無自覚がより強化されるという状況があったように思う。 この争議の特異性ももちろんあるが、全国のNPO労働者と共通する点もたくさんあるはず。 カサイさん 「女の仕事の評価:シャドウワークとしての一般事務」 一般事務という仕事、とくに運動団体におけるルーチンの職場の中の家事的仕事で、たとえばNPOの場合、会費管理が個人情報の管理という側面もあり重要な仕事だが、ルーチンで面白い仕事ではない。重要なくせに軽んじられる業務といえる。そして、評価と達成感と報酬が低い「めぐまれない仕事」でもある。でも、そういう仕事がNPOの日常業務なわけだ。そういう仕事の位置付けについてこの争議を通じて考えさせられた。 最初の採用にあたり、事務局的な仕事をやってくれといわれてきた時には、遠藤さんがかろうじて道筋づけと分類だけはしておいてくれたものの、ごちゃごちゃの状態だった。それを遠藤さんらと相談しながら組み合わせて、理事に提案しながら仕事をしていった。達成感は自分で設定しながら仕事をしていった。 1月31日、それまでは遠藤さんの労働条件についての争議だったものが、いきなり事務所しめるからという理由で退職勧奨をされた。ルーチンワークのほかにも自分はサイト管理者権限があり、仕事もしていたが、それを深夜の時点でいきなり削除され、引っ越しの仕事をしろとだけいわれた。事務をいっさいがっさい切ってしまいやっていけるのかとも思ったし、情けなくもなった。 理事会発行の文書の中で、そもそもカサイさんの仕事はあまりなかったみたいなことを書かれ、ひじょうに衝撃を受けた。 賃金の上で、「一般的な女性パートの時給」より高いといったふうに言われており(理事会文書2月14日付)「世間の非正規雇用とは異なる」のだ云々と言ったことにたいし、これが女性学の学者なのかと非常に驚き失望した。報われるというのは、賃金のみならず、仕事として必要でまかせているのだという認識など、ほかの要素もあるはず。 まさに遠藤さんがいっていた集団的無責任の状態だと思った。言っていることの意味をわかっているのかとも。 NPOをつくろうとしている友人にユニオンをつくったときに報告したら、「NPOで労組をつくることの意味は何なのか」といわれた。こぢんまりと労使で和気あいあいとなんでも思っていることが言えるような状態で自分たちはNPOをつくりたいのだと。そこに労組つくったらかえって大変なのでは?といわれ、それにも驚いた。なぜこうも食い違うのかとつきあわせて考えたところ、雇う側が権力性にどうしても気づかないと気づいた。雇う側は、フレンドリーに和気あいあいと、相手の意思を確認しつつ気を使っているつもりだが、雇われている側は、雇われているからもっと気を使わなくちゃ、でなかったらここでは働けないかもという、権力関係が発生する。こういうことに鈍くなっていては、NPOはいつまでも不合理、不条理な働き方、働かされ方をして、人間として働く側が消耗、沈没してしまうという危険性がある。 NPOにはいろいろな働き方をしている人たちがいるが、NPOだからといって立派とか健全とかいうこともない。 信頼関係が私の側も失われたことがあり、とくに「恫喝訴訟」とも受け取れる内容証明の後はぐったり疲れてしまった。 質疑応答で話されたこと 業者との話し合いに関しては、話しているということは知っていたが、話している内容についてはまったく知らされていなかった。 指揮命令系統があまりなくて、現場の遠藤さんとカサイさんが仕事内容も考えて自分で自分に指揮命令をしていた状態だった。 和解内容にブログ記事削除せよとか、和解内容を公開するなという文言は一切はいっていない。 NPOでいい仕事をしている団体でも、労使交渉の話しがでたとたんに仕事を干されたり、人間関係がどろどろになったりする場合が多いと会場から指摘。それに対して、遠藤さん、そういう話しこそしたいと。同じような問題があまりによくあるので、それを何とかしたい。 グループワークや自由討論で議論されたポイント 日本がずっとつくってきた、官や大学などの制度的問題がある。研究者としての研究内容と乖離した、使用者としての無責任な行動についても、こういう制度によってつくられたものでもある。 NPOや大学のプロジェクトにおける労働問題がある。大学プロジェクトは雇用者は大学だが、具体的な研究は教授などが中心となる。だが、仕事の範囲が明確ではない、具体的な業績がどうなるのかなどの問題があり、そんな中、学生が劣悪な環境で働かされているが教師と生徒の関係のため避けることができない。NPOでは主婦的パートタイマーが大学における学生的な状況におかれており、構造的に類似した問題があると思われる。 運動団体では目的が前面にたってしまうので、目的を達成しようとするあまり人間関係が後回しになってしまう傾向がある。また、指揮命令系統の問題が大きい。民間組織は責任者がいて窓口がいるなど、運営ルールが整備されているが、運動体はその責任のありかが曖昧になる。その結果、負担が現場にいってしまうのが問題。 非営利団体の中に有償と無償労働の人がいる難しさがある。また、有償になっている労働の中でも、それに還元されない無償労働も含まれる。人間関係の中ですべてが決まる難しさもあり、そこで権力関係に意識しないと話しあいも成立しなくなる。 WAN争議の中で、事務所閉鎖の理由として、「無償ボランティアとの整合性」という理由を使われた。無償でこつこつやってくれる人がいるから、その人たちに申し開きができないのように言われた。賃金の発生の有無が仕事が上等だとか評価されるとかえらいとか、そういうことを意識してしまうような仕事配分がされていたのかとも思うと同時に、必要なんだが重要視されない事務という仕事はなんて軽んじられているのかとも思った。 大学職員や自治体職員の、事務分野のひとたちが、雇用期間の上限が儲けられるなどして、使い捨てされる現状がある。そこまで軽んじられている労働なのか、だとしたらそれはなぜかなど、もやもやしている。 こういった問題について事例が身近にある人は語れるが、そうではないとわかりにくい。実例を共有できる場がもっと必要。 WANは大学教員が主体だが、大学教員というのはこういう活動は善意でやっている。そこで使われる人というのは、大学の中では徒弟制度的であり、上下関係ができているから、そういう中で善意でやってもらい、教育機会を与えているのにユニオンなんかつくるのか、というような発想は起き易いのではないか。 フェミニズムは賃金が発生する労働としない労働を、家事労働ということで追求した。同じテーマなのに、この問題は気づいていないかのようだ。事務労働は家事労働のように直接お金を生み出すものではないとういことで重視されない。 フェミニズム研究者が前面にでている団体でこういう状況が起きたのは、アカデミックなフェミニズムにとってもマイナスでまずいこと。 女性のための組織、労働問題を扱う団体でさえも、「やりがいの搾取」やパワハラなどが存在する。権力関係やものが言えない関係があるということを常に意識しなければ、弱者は排除されてしまう。 運動体にありがちだが、みな一生懸命やって無理して、心身ともに病んでいく。そのストレスのはけ口を弱者に求めることがある。 内側から声をあげようとすると、社会的な団体のネガティブキャンペーンをはっていると思われてしまう。 労働運動を30年ほどやってきていろいろな使用者を相手にしてきたが、一番質が悪いのがNPOだ。ボランティアが前提になっていることがある。ある団体と労働条件の交渉をやっていたとき、こういうところで働くにはボランティア精神が重要で労働条件改善なんてとんでもないということで、ものすごい大げんかをした。WANの場合も善意があるということが前提でやりにくかった。 NPOで働く女性たちは主婦労働がベースになっていて、有償でなくてもいいんだという前提がある。そこをクリアしていくために、もっと声をあげていかなくては。 NPOで働く人たちは各団体に1人とか2人とかで勤務していたりするので、ものすごく孤立しているはず。この争議を契機として、ネットワークをひろげていくようなシステムを考えたい。 ネットについてとくに言及するコメント ネットにも詳しくない人たちが、ネットでサービス提供という側にまわるという問題があった。ウェブ社会になって、こういう問題がまた勃発するのではないか。 署名は全然知らない人たちが声かけして集まったが、通常なら友達や組合によびかけて支援してくれるのだが違うパターンだった。 twitterなど、パソコンもってなくてもアクセスできるツールもできたし、全然顔をしらなくても応援できたということにつながったかもしれない。 ウェブでの活動なのに、理事会のウェブにださず水面下でというのに納得いかなかった。組合はネットにのせるのは勇気が必要だったと思うが、それをしたことで、ネットで行われていることだったからネット使う人たちは応援したい気持ちがありつながった面はあるかも。 WANサイトは、編集権限のありかなどが決まっておらず、曖昧なままでこのままだとどうなるのかという思いがあった。 署名サイトに関わっている人たちは皆ブロガーという共通点もある。WANサイトがネットの公共性を無視しており、自分たちの立場も主張せずにクローゼットの中にこもっていることに疑問をもっている。 フェミニズム団体では、ネットができるという少数の人たちが過剰な仕事量をこなさなくてはならないが、その仕事内容が上の人たちにはわかってないという問題がある。 http://www.webfemi.net/?page_id=791 2010年6月6日 「非営利団体や市民運動における雇用や無償・ボランティア労働を考えるーユニオンWANの事例から」集会報告 当日の報告者と表題について DVD「均等社会は夢ではない」一部上映 遠藤礼子さん「WAN争議の経過と要点」 カサイさん「女の仕事の評価:シャドウワークとしての一般事務」 質疑応答 グループワーク 全体議論 司会:斉藤正美、山口智美 集会の報告 遠藤さん、カサイさんの報告と集会での議論の要点:山口智美 集会から浮かんだ課題と感想:山口智美 ユニオンWAN集会を振り返って:斉藤正美 集会報告を読んで 続・カサイの気持ち:ユニオンWAN書記長 カサイさん http://www.webfemi.net/?page_id=789 無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク 東大ジェンダーコロキアムがWANと共催で2010年1月13日に開催した「新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」」を動画で視聴し、無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トークというエントリーを書きました。 本サイトにアップしている「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会は、2006年12月16日にこのジェンダーコロキアムで行われたものです。山口智美さんとともに、上野さんに企画提案したものです。実施後、テープ起こしした内容や配布資料などをこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにアップしたものです。 今回のエントリーは、現時点でわたしがジェンダーコロキアムという場のイベントをみての感想を付け加えたものです。 なお、「『ジェンダー・フリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」という集会をジェンダーコロキアムで行うことになった詳しいいきさつについては、山口智美さんの主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」に書かれているので、そちらを参照していただきたいと思います。 http://www.webfemi.net/?p=754 WAN 掲載記事の紹介&書くことになった経緯 先日 WAN (Women's Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はこちら: よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん) 笑おう、憤りと皮肉と拒絶とをこめて - tummygirl さん そんならわたしは『平成オマンコ塾』で - ミヤマアキラさん 主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」 - 山口智美さん 無邪気で戦略的なジェンダーコロキアムという場ー上野・澁谷の爆笑トーク - 斉藤正美さん 書くことになった経緯 そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。 そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。 「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。 今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。 とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。 もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。 http://www.webfemi.net/?p=747 主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」 先日行われたジェンダーコロキアム(ジェンコロ)とWANの共催企画『新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」』の一部だけを見た。ネット生中継時間帯は私が住むモンタナでは深夜だったし、後日アップロードされた動画を見ようとしてみたが、家の回線速度が遅いためか、5秒に一度のペースで画像が止まったりした。何とか頑張ってみたが、結局90分以上ある動画の43分時点まで見たところであきらめた。その段階ですでに「こんなに苦労してまで見るべきものではないのでは」という疑問がむくむくと頭をもたげていたのもある。 その43分間、ずっと気味が悪かったのが、妙な「内輪的なれ合い」の空気と、会場から聞こえる「笑い」だった。会場の聴衆が見えないため、その「笑い」の状況が見えないのが、余計に何ともいえず気持ちが悪い。だって、動画をみていて何一つとして「笑える」ところがないのだから。 43分しか見てないし、すでに内容については実際その場に行かれたtummygirlさんによる秀逸なエントリがでているので、この稿ではつっこんでは言及しない。ここでは、ジェンコロと私との関わりを振り返りつつ、今回のジェンコロでとくに顕著に見えてきたその権威性と問題点について考えてみようと思う。とくに、1)ジェンコロが内輪のネットワークの誇示の場になってしまっており、そのこと自体が権威となっていること、その中では多様性や異論といったものは排除されるだろうこと、2)「最先端」を代表しつつ、しかも同時に「一般」にも届くことをしているかのように装うことで、さらなる権威の発動をしようとしていること、3)そんな中、とくに今回の企画では、「男女共同参画」の世界でも主流になったような、「意識偏重」言説が垂れ流され、構造的な権力問題などが不問にされる場となっていること、といった問題点を感じた。そのことについて以下、ちょっと長くなるが、述べてみたい。 ジェンコロは、たしか上野さんがドイツの在外研究から帰ってきた後、97年くらいに始めたのではなかったかと思う。私は97年4月から98年3月まで、アメリカの院所属の学生として、上野ゼミに参加していたことがある。たしかこの時に、ジェンコロというのを始めるという話しを聞き、それが始まって私も何度か参加したのだったと覚えている。その頃のジェンコロは、夜の開催ということもあり、ゼミとは若干違う「開かれた場」ではあったが、いつ何のイベントがあるといった情報は私はゼミで仕入れていた気がする。基本的には、書評セッションであるとか、研究についてのトークであるとか、そんなイベントが多かった。 そのうちジェンコロの連絡MLができ、いまだにそのMLにははいりっぱなしの状態になっているので、だいたいどんなイベントが開かれてきたのかという感じはわかる。実際のジェンコロについては、97年〜99年に日本に調査のため滞在していた期間は時々行っていたが、その後アメリカに帰ってきて以来、この10年の間でせいぜい2−3回しか行っていないと思う。 そんな背景から、ジェンコロは 上野さんが主催している、MLでアナウンスがやってくる会、程度に認識していた。だが、最近「ジェンコロって何だ」的なつぶやきをtwitterなどで見かけるようになり、MLはあってもネットからは申し込みもできない状態であり、案内なども公的には出ない場合がほとんどであるということを知った。そして、おそらくその秘密主義っぽい状況のため、「ジェンコロなるものがあるらしい」「そこで何かアカデミックフェミニズムやジェンダー研究の世界で影響力があることが行われているようだ」的な「噂」になっているようだ、ということも。そして、ジェンコロというものが、一種の「権威」になっているのかも、ということにも改めて気づかされた。 思い出してみれば、ジェンコロによく来ていたのが、編集者だった。どうやらジェンコロが、本を出せるような研究プロジェクトを抱えている「若手」の研究者を発掘する場、として機能していたような節は当初からあった。比較的内輪のゼミ生が主に参加する研究発表の場、というだけの位置付けでは、当初からなくなっていたのだとは思う。 そして、「東大」という場の力もあり、上野さんの権威発動の場としても機能していった側面は否定できないだろう。ジェンコロで、スピーカーになるだけではなく、とりあえず参加しておかないと、主流アカデミックフェミニズムの流れから置いていかれるかもというように(少なくとも一部 では)捉えられるような場になっていったのかもしれない。実際、今回の「爆笑」セッションで明らかになったのは、最先端の情報を得るどころか、フェミニズムの本来流れから隔絶されかねない、ということだった気がするが、、 今回のジェンコロは、WANとの共催ということもあり、ジェンコロのMLのみならず、WANサイトでも、某秘密主義ジェンダー関係MLでも盛大に宣伝が流れていた。これほどまでに、大きく宣伝をうってでたジェンコロイベントは初めてだったのではないか。そして、ネット上で中継までし、録画配信までしている。「一般むけ」を狙った、興行的な企画だったといえる。 そこでふと考えてしまった。当初は、研究発表や書評セッションが主であり、興行的な企画をやってきたわけではなかったジェンコロだが、こういう企画をやっても成り立つ、動員もできるという認識ができたのは、もしや斉藤正美さんと私がもちこんだ企画の、 2004年12月の「ジェンダーフリー概念からみえる女性学・行政・女性運動の関係」の回がきっかけとなってしまったのか?と。もしかしたらマズい先例を作ってしまったのかと。 あの企画をジェンコロに持ち込んだ理由としては、二点ある。1)急に思いついた企画だったので、場所とりなどを考えるのが面倒だった。そこで、ジェンコロなら場所タダだし、なんとかなるだろうと思った。 2)当時の上野さんは、「ジェンダーフリー」概念を批判的にとらえていると思われる発言をしていたので(We誌2004年11月号における「ジェンダーフリーバッシングなんてこわくない」インタビュー記事が出て間もない時期だった)一度同じ場で、議論に巻き込んでみたかった。だが、今自省的に考えてみれば、上野さんのところで会を開くことで、自分たちの声が届きやすくなるのではないかと当時思ってしまったことは否定はできない。考えが足りなかったと自分でも思う。 この会については、Fem-netあたりのMLで宣伝が流れたかもしれないが(よく覚えていないが)それだけであり、積極的に宣伝もしなかった。斉藤さんと私も、来るのは上野ゼミの学生さんが主だろうと思い、少人数の勉強会的なものを想定していた。パネリストの中に富山の方がお二人いらしたことから、富山の運動関係者や上野さんのご友人が数名来るらしい、ということはわかっていたが、その程度だと思っていた。(正直いえば、富山からわざわざ聞くためだけに何人かがいらしたことにも驚いた。それも、東大や「上野千鶴子」の権威の影響があったのかと思わざるを得ない。) 話題がその頃にしてはタイムリーだったこともあるのだろう。ふたをあけてみたら、100人を超えるような人数が来てしまい、女性学者や女性運動のいわゆる「有名人」の姿もちらほら。もちろん編集者も数名来ていた。会場が狭く、椅子が足りなくなったりした。そこで初めて「東大」や「上野千鶴子」の名前の威力を感じ、怖いものを感じたのだった。もし、女性センターあたりで、上野さんなしで同じ会を開いていたなら、あんなに人は来なかったはずだ。 会の様子は当サイトにアップしてあるので、そちらをご参照いただきたい。考えてみれば、ジェンコロの様子がネットに詳細にレポートされた、という点では、この回が初めてだったのかもしれない。そもそもなぜネットにテープを起こしたものをアップすることになったか、といえば、かなり複雑な事情が絡んでいる。もともとあの会は、録音はとらない予定だったのだ。会場に対しても、録音はとらないでくださいということをアナウンスし、共催側であった斉藤さんと私もその取り決めに従い、録音はとらなかった。だが、後からなぜか『We』誌の編集者が、上野さんだけに了解をとったといって、録音をとっていたことが発覚。それに基づいてレポート記事を掲載するのだという。その原稿というのが送られてきたが、もちろんテープ起こしそのものではなく、上野さんのご発言と、『We』編集長氏のスタンスと近いと思われる発表者の発言ばかりが長大に引用されている、あまりに偏ったレポートになっていた。このイベントに参加しての、個人的な感想レポートならいい、でも、「録音しない」という取り決めがあったはずなのに、共催者の斉藤さんと私が知らない中で録音したというのがそもそもおかしいし、それに基づいたものを出版しようというのがますますおかしい。その録音テープ、企画者および共催者である私たちに渡してください、ということを主張し、結果としてテープはかえってきた。 録音テープがやってきて、『We』にはテープ起こしに基づいた原稿が載らないとなった時点で、偏った起こしではなく、事実どおりにそのまま起こしたものを、ウェブサイトに載せます、ということになったのだった。もともとネット上で盛大に詳細レポートを掲載する予定でもなかったが、成り行き上そういうことになってしまった、というのが実際の経緯だ。 だが、そのネットへのレポート掲載が、もしかしたら「ジェンコロ」というものが「権威」をもちうるイベントであり、ゼミ発表を超えた、興行的な企画をも行うことがある場、みたいなイメージをネットを介して高める一つの要素になってしまったのかも、と今になって思う。そして、今だったら、あの会をジェンコロでやろう、とは思わなかっただろうと。もちろん、あの時すぐに場所をご提供いただき、会を開かせていただいたことに関しては、上野さんに感謝はしている。だが、ジェンコロという場の「権威」性について、企画を持ち込んだときにはあまりにナイーブにも考えが足りていなかったと今は思う。それに加え、当時からくらべて、上野さんのスタンスが、明らかに変わった面があると思うこともある。 あの頃は、上野さんはアカデミックフェミニズムの世界では明らかに「主流」であり、大澤真理さんとの対談本などで行政の「男女共同参画」やら「ジェンダーフリー」にお墨付きを与えたりもしてきたが、それでもたまには「主流」的なものに異議を唱えることもある、という印象があった。だが、国分寺で2005年、上野さんの講演がバックラッシュのために断られたという事件以降は、上野さんはもはや完全な「主流派フェミ」としか思えなくなった。あれを機に運動の世界でも「主流」にはいってきて、「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」への検証であるとか、フェミニズム運動の方向性の問題だとか、行政との関係であるとか、そういうあのときジェンコロで議論したはずの問題意識は、どこかに置いてきてしまったのかなという印象だ。WANのオープニング集会では、バックラッシュに対抗するためにつくったWANであり、「女の連帯」が重要だといった話しをしていた。「バックラッシュ」対抗のための「連帯」という概念の中で、異論がつぶされようとしている問題、「連帯」を唱える中で、権力が発動するやもという問題など、考えておられるようには聞こえなかった。そして、いまや「おひとりさま」でベストセラー作家状態である。ジェンコロ動画の冒頭から「売れる、売れない」にやたらこだわっていたことから、今度は資本主義的側面で本が売れるか売れないかということこそが大事、というような「主流」的な考えにになったのかなあと思った。 先日のジェンコロの、見えない聴衆の「笑い」から見えてくる内輪ノリかつ、その「内輪」ネットワークの誇示。 「シスターフッド」「女どうしの相互扶助」なるものへのノスタルジアをあえて打ち出し、「一般に通じる」ことこそが重要というメッセージを打ち出し、「オトコ」への慈愛に満ちた眼差しなるものも加えたわけだ。結果として「多様性」を排除し、かつ厳然として存在する権力関係や権威といったものを、一方では思い切り利用しつつ、もう一方ではうまく隠蔽しようとする、そういった場として機能しているのではないか。 トークの中で、澁谷さんは、東京経済大学で働くことで「男子」に届く言説を開発する必要性を感じ、それを実践したと述べられていたが、東京経済大学の学生さんたち=一般的な「男子」なのか?東京経済大学の学生さんたちの中の多様性はどこへいってしまったのか?そもそも、(どの授業でもいえることだが、とくに)あえてジェンダー論のクラスをとろうという学生さんたちは、「ヘテロ男子」ばかりではない可能性がかなり高いだろうに。このトークの中で、唯一「多様性」の要素として提示されたのは「世代」であり、ほかの多様性はないがごとくの扱いだった。そもそも、「一般」って何なんだろう? アメリカで私がつとめている大学でも、卒業しても、 仕事をとるのは本当に厳しい状況に学生たちは遭遇している。そんな中、一介の大学教員である私が、「あなたたちを救う」なんて、私はおこがましくて言えない。個々に様々な事情を抱えているであろう「男子」学生らに対して、あなたたちの状況は何やっても変わらないんだから、「男らしさ」からおりれば楽になるよ、なんて、上から目線の単純なこと、しかも世の中の不均衡そのものを肯定するようなこと、とてもじゃないけど言えない。 そして、こういった「男らしさ」という「ジェンダー意識」への呪縛が最大の問題、といった言説は、「男女共同参画」がおしすすめてきた「意識偏重」の傾向ともあまりに重なる。その「意識偏重」の先には、「個々の意識のせいにすることで、社会そのものの権力関係や構造の問題を軽視し、隠蔽する」という大問題が見えてくる。そもそも、フェミニズムって「ジェンダー規範にとらわれる意識」だけを問題にするものではないだろうに。それより、社会構造、権力構造こそ問うてきたのではなかったのか。しかし、なんと行政による男女共同参画講座のみならず、主流アカデミックフェミニズムの「最先端」であると思われているらしいジェンコロでも、こうした言説が垂れ流されていたとは! 上野さんは、「蓋然性」なる言葉を連発し、「社会学者は滅多に無い事例をみても仕方ない、実証研究で一般性をみる」と繰り返していた。しかし、話しの中からでてきたことは、若干の取材もしたのかもしれないが、「経験則」という言葉を使いながら、ほとんどが自分の身の回りの世界での経験に基づいた印象論レベルのことだと思われた。これは、「実証研究」の意味を取り違えているとしか思えない。自分のまわりの世界がすべてなんだろうか?そもそも、大学教員が日常でみる世界って、ものすごく限定されているはずだ。私は社会学者ではないが、似たような「実証研究」的なことをする文化人類学者だ。「経験則」そのものを否定はしないが、調査にも基づかずに「経験則」だけで「一般的」にものが言えるみたいな発言もあまりにヘンだと思うし、「蓋然性」をみるからそのパターンにはまらないものは見る必要がない、といったような発言になると、もう根本から方向性が違うと思わざるを得ない。 そして、「一般むけ」「爆笑」企画と銘打ったイベントで「蓋然性」「経験則」などといったジャーゴン的な言葉をちらちらまぶし粉飾することで「専門家」としての権威を高め、煙に巻こう、説得力(?)を高めようという狙いも見え隠れする。しかし、普通に考えてみたら、説得力ゼロだ。パーソンズの時代じゃあるまいし、社会学って「蓋然性」や「一般化」をそんなに過剰に重要視する学問ではないと思っていたのだが。むしろ、マイノリティの声や抵抗、変化の兆しを掬いあげるのが社会学であり、フェミニズムの重要な側面ではなかったのか。 そんな議論がなされる中で、「ヘテロ中流階級都市部住民」などの、「一般」と定義されているらしい人たち以外で、おそらくその場の会話に「笑えない」であろう人たちは排除される。また、「女の相互扶助」をノスタルジックに語り、理想化するあまり、「女性」間で存在している権力関係は「ないもの」かのように語られる。そして、WANで現在進行形で起きている労働争議だって「ないもの」として扱われるということになる。 (ミヤマアキラさんのエントリ中で、WAN争議に関して見事に書かれています。)この現実離れぶりはどうしたことだろう。 ジェンコロは「主流派フェミ」の「連帯」を誇示する場として権威をもってしまったように思う。そして、それがアカデミックフェミニズムだけではなく、「一般」へも、東大で、またネットでも今回、誇示されたということだ 。「連帯」の誇示の裏には、「多様性」の拒絶がある。そして、「個々人の意識」ばかりに焦点を当てることで、構造的な権力問題を隠蔽する。そういったことが、ジェンコロという「権威」をもった場で行われ、いかにもアカデミックフェミニズムの最先端であるかように提示されたのは、衝撃としかいいようがない。 もし、斉藤さんや私が企画したセッションが、今回のジェンコロ企画のきっかけづくりを行ってしまったとしたら、と思うと、正直いって忸怩たる思いだ。もちろん、それだけがこの権威主義的なありかたの原因ではないだろうが、、、それにしても、あの「ジェンダーフリー」をめぐる企画のためにジェンコロを選んだことは、今となっては自己批判すべきだと思っている。そんな思いがあり、「ジェンダーフリー概念からみえてくる女性学・行政・女性運動の関係」レポートを掲載している当サイトに、この文を書いた。 http://www.webfemi.net/?p=716 2009年6月 日本女性学会「ジェンダーフリー」と「バックラッシュ」を再考する 2009年6月、日本女性学会にて「ジェンダーフリー」と「バックラッシュ」を再考する、というテーマで、プレ研究会と、学会大会でのワークショップを開催しました。女性学会ニュースに掲載された、研究会およびワークショップの報告です。 プレ研究会報告 2009年大会ワークショップ「『ジェンダーフリー』『バックラッシュ』を再考する」において話し合う論点を事前に協議する「プレ研究会」を、2009年6月14日(13時-16時半)、東京ウイメンズプラザ視聴覚室において開催した。参加者は21名。インターネットを通じた告知により、学会以外からも幅広い参加があった。 荻上チキ、山口智美の司会により、ワークショップ発言予定者の井上輝子、荻上チキ、金井淑子、斉藤正美、細谷実、山口智美、それにプレ研究会のみ参加の木村 涼子から、ジェンダーフリーをめぐる論争について現在どう考えているかの報告がなされた。その後、発言者どうし、および会場を交えた議論が行われ、女性学会内部では概念、理論的なことへの関心が高い一方で、バックラッシュの時代背景や実態分析が十分なされておらず、弱者男性のルサンチマンが原因であるというような曖昧な論が多く提示されている問題点も指摘された。 この問題について異論をぶつけあい、議論するという機会が今まで女性学会の中で欠けていたことを考えれば、対面で議論する場を設定できたという面では意義深く、立場の相違点の確認をし、議論のスタートラインにたつことができた。また、ジェンダーフリー誤読問題を検討し直すなど、女性学のバックラッシュへの対応のストラテジーをしっかり検証していく必要性を確認した場となった。 一方、女性学のインターネット対応をめぐる諸問題については、重要であるが十分に検討されていないという指摘が出たにもかかわらず、この場でも議論ができず、今後の課題として残った。(斉藤正美) ワークショップ報告 最初に、女性学会の中心を担ってこなかった山口智美、荻上チキ、斉藤正美から、女性学のジェンダーフリー論争、バックラッシュ対応のストラテジーに関する問題提起があった。共通して指摘されたのは、現場、ネット上双方のバックラッシュ現象の実証研究の欠落、女性学のネット対応のまずさ、地域現場からみえる、女性学の行政依存のトップダウン方式の限界などだった。それに対して、女性学会の幹事をつとめた伊田広行、金井淑子、細谷実、井上輝子、および、学会外から小山エミが、コメントを述べた。男女共同参画政策や、女性学のジェンダーフリー推進策とバックラッシュ対応をどう評価するか、「バックラッシュ」現象をどう理解しているかなどに関して議論が進む一方、立場の違いも浮き彫りになった。聴衆が80名以上と、大教室がほぼ満員となり、会場発言も多く、後日には参加者のブログ上での報告や議論もあり、このテーマへの注目度の高さが伺われた。(山口智美) 以下は、個人ブログなどに掲載された報告のリンクです。 プレ研究会 女性学会プレ研究会の報告 (斉藤正美) ジェンダーフリーへのバックラッシュを再考する (隠フェミニスト記(仮)) 女性学会プレ研究会の報告(デルタG) ワークショップ 女性学会レポまとめ&発言要旨 (荻上チキ)ワークショップのレポートへのリンクが掲載されています。 上記ブログに掲載されていない記事リンクは以下。 フェミニズムがトップダウンでどうする 「草の根アプローチ」のススメ (斉藤正美) 女性学会ワークショップ発表要旨 (山口智美) ワークショップでの配布資料 『「ジェンダーフリー」「バックラッシュ」をめぐるこれまでの女性学での経緯』 http://www.webfemi.net/?page_id=526