主流フェミの連帯誇示と権威発動の場としての「ジェンコロ」

山口智美 | 2010/1/18

この稿では、ジェンコロと私との関わりを振り返りつつ、今回のジェンコロでとくに顕著に見えてきたその権威性と問題点について考えてみようと思う。とくに、1)ジェンコロが内輪のネットワークの誇示の場になってしまっており、そのこと自体が権威となっていること、その中では多様性や異論といったものは排除されるだろうこと、2)「最先端」を代表しつつ、しかも同時に「一般」にも届くことをしているかのような位置付けであることが、権威発動の働きをしていること、3)そんな中、とくに今回の企画では、いわゆる「男女共同参画」の世界でも主流になったような、「意識偏重」言説が垂れ流され、構造的な権力問題などが不問にされる場となっていること、といった問題点を感じた。そのことについて述べてみたい。

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マサキチトセさんへの応答:「フェミニズム」の射程を狭めてしまう「ジェンダーフリー」擁護と、反「ジェンダーフリー」言説

斉藤正美 | 2009/7/27

「ジェンダーフリー」をめぐる保守派からの批判を受けたフェミニズムの対応には、実質的にクイアを排除する面があった。その現状を打開するために考えられる方策は、「男女平等」に戻るというのではなく、新たに「性の二元制」ならびに「異性愛制度」と「男性標準」を標準的なルールとする現在の文化や規範を見直し、「性にまつわるあらゆる形態の差別」を解消するという考え方を打ち立てること、さらに、それについての具体的な取り組みをフェミニズムを支持する人たちが積極的に始めることであると考えている。

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「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズム運動の失われた10年

山口智美 | 2009/7/20

双風舎編集部編『バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』双風舎、2006年 掲載論文

(1)はじめに

1995年前後は、日本の女性運動にとって、重要な転換点だった。 1994年、男女共同参画審議会が作られたことで、耳慣れない「男女共同参画」という言葉が登場し、1996年には、同審議会による「男女共同参画2000年ビジョン」と「プラン」の中で「ジェンダー」という言葉が登場した。そして、「ジェンダー・フリー」という言葉も東京女性財団 によって紹介された。同年の北京の世界女性会議会議以降、「エンパワーメント」というカタカナ言葉が流行る一方、「ジェンダー」という言葉も新聞などでちらほら見かけるようになっていた。

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男女共同参画条例:「ジェンダーフリー」より「積極的格差是正措置」を

斉藤正美 | 2009/7/20

各地の男女共同参画条例の制定過程において、「男らしさ/女らしさにとらわれない」という「ジェンダーフリー」の理念を入れるか入れないかが攻防の的となっている(10月22日付け「ポリティカにっぽん 男女共同参画バックラッシュ」)。

「ジェンダーフリー」は、元来、東京女性財団がバリアフリーにヒントを得て用い始めた和製英語的な用法である。インターネットでgender-freeを検索すれば、日本の男女共同参画行政のサイトが多出するので驚く人も多いだろう。東京女性財団の説明では、「男女のジェンダーコードの『段差』を発見し、これを『平ら』にする試み」とある。

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男女共同参画条例:「ジェンダーフリー」より「積極的格差是正策」を

斉藤正美 | 2009/7/20

わたしの住む富山県高岡市でも男女平等推進条例の制定に向けて、公募の市民や地域で活動する団体のメンバーらが条例検討専門部会の委員に選ばれた。9月6日には、部会の市民委員ら総勢12名がバスを仕立て福井県武生市に三木勅男市長を訪ねた。三木市長は「男女平等オンブッド」(苦情処理機関)の設置を盛り込んだ先駆的な条例を制定している。その日は、折しも三井マリ子さんがその「男女平等オンブッド」に就任された日であり、お話を伺えた。その後、訪問団に参加した議員は、高岡市9月議会で条例に苦情処理窓口をと注文をつける一方、女性団体は市長に「男女平等オンブッド」を要請する意見書を提出するなど武生行きの影響が広がった。

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細谷さんへ、あるいは性別特性論に焦点化する女性運動批判

斉藤正美 | 2009/7/20

3月29日の私のブログ「ジェンダーとメディアのブログ」で、『世界.』4月号特集「ジェンダーフリーって何?」の細谷論文について書いたコメントについて、昨日、細谷実さんご本人がコメントを書いてくださいました。細谷さん、ブログを探して書いてくださり、ありがとうございました。

コメントを拝読して、29日の文では意図がよく伝わらなかったなあという反省もあり、ここで「細谷さんへ」という文章にしてみました。最近の行政結託型の女性学・女性運動(90年代半ば以降、これが女性運動の主流となっています)が「性別特性論の乗りこえ」を大きな目標としているのは、女性運動の歴史からみれば、どうみても昔語りです。女性運動はとうの昔から、「性差別をなくすこと」をターゲットにしてきました。基本法、条例は、行政もその方向にシフトしたことの踏み絵だったのではないのですか。今になって、右派が出してきた「能力、適性、役割」の議論にのるのは、どうみても後退戦に巻き込まれて討ち死にする作戦です。それは願い下げです。そういうことを書きました。29日のところと合わせてお読みいただければと思います。

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官製「ジェンダー」が下りてきた!:「ジェンダー」「ジェンダーフリー」の定義をめぐる闘争と行政・女性学・女性運動

山口智美 | 2009/7/20

「ジェンダー」の定義をめぐる議論が盛んである 。反男女平等を主張する右派が、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」という表現について、「性差の完全な解消を狙っている」などと曲解に基づき、攻撃を加えていることがその背景にある。それに対し、日本女性学会、内閣府男女共同参画局、自民党の一部新人議員や、公明党などの政党が「正しい」ジェンダー概念を使うことを提案した文書を出すという動きが出ている。

「ジェンダー」という言葉を使うべきかどうかという議論が沸騰する一方で、日本の女性運動は90年代半ばまで「ジェンダー」という言葉を使わずに、女性差別撤廃、性の平等の運動に取り組み、成果を挙げてきた歴史を持っている。「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」が本格的に登場したのは90年代半ば、北京会議以降の、ここ10年ほどの流れなのだ。そして、これらの言葉は行政主導女性学で、導入されてきたのだ。そこから見えてくる、女性学・行政・女性運動に関わる問題について考察してみたい。

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おかしいぞ!「男女平等教育=性別特性論」説

山口智美 | 2009/7/20

「男女平等教育」というのは性別特性論を超えられないので限界がある、という論が流通しているようである。

昨年の12月、東大でのジェンダーコロキアム「ジェンダーフリー概念からみた女性学・行政・女性運動の関係」の際の会場との討論で、私はこの論を初めて聞き、驚いた。そこでは、性別特性論を「男女平等」概念では超えられないからこそ、それを超える概念としての「ジェンダーフリー」が必要なのだ、という論理が展開されていた。

それ以降、この「男女平等=性別特性論」説というのがやたら目につくようになった。女性学者の集会などでの発言、そして教員組合の女性部のニュースレターや、緊急行動要請の類い、そして各地の条例審議会での議論などを見ても、この論がかなり広く流通していることに気がついた。

だが、少なくとも日本の女性運動の歴史において、このような理解は1995年頃までは主流ではなかったのではないか。女性運動は男女平等教育をめざして運動を続けてきた訳で、当然ながら性別特性論は超える対象であった。「男女平等教育=性別特性論」なんてとんでもない、「男女平等教育vs性別特性論」という枠組みだったはずだ。例え男女平等を性別特性論の枠内で語る勢力があっても、女性運動は常にそれを超える概念としての「男女平等」を提唱してきたのではないか。

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女性学の権威主義

斉藤正美 | 2009/7/20

日本女性学会の『学会ニュースレター』101号(2005年2月)で、伊田広行さんが「ジェンダーフリー概念を捨て去るという退却戦略は有効か?」という記事を書いておられる。そこでは、次のように、「『We』2004年11月号や同時期の研究会などで展開されている、ジェンダーフリー・バッシングに対する『ジェンダーフリー概念を使わなければいい』という上野千鶴子さんや一部論者たちの意見」が批判の俎上に上がっている。私は、『We』紙上には書いていないが、東大での研究会で報告した一人なので「一部論者たち」に入るのではないかと思う。そこで、私の意見が誤解されては困るので対論を出したい。しかし、残念だが、本論に入る前に、伊田さんの主張に、「反対のために反対する人から邪魔されたくない」などといった発言封じの言葉が多いことをまず問題にしなければならない(もちろん、私の主張は「反対のための反対」ではありません。女性学や女性運動の方向性を再考することが目的でした)。

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「ジェンダーフリー」をめぐる大混乱

山口智美 | 2009/7/20

12月に開催した東大ジェンダーコロキアム「ジェンダーフリー概念からみた女性学・行政・女性運動の関係」に出て、気づいたことがあった。「ジェンダーフリー」概念を使い続けるべきだ、と主張していた会場からの発言者の多くが、「私自身はジェンダーフリーという言葉は使ってきませんでしたが」と最初に断ってから発言しているのだ。その後、上野千鶴子さん、斉藤正美さんや私の「ジェンダーフリー」概念再考の主張を批判し、「ジェンダーフリー」という表現は支持すべきだといった類いの文章などもいくつか見たが、なぜかその中でも「ジェンダーフリーという用語を自分は使って来なかったが」という枕詞のような断り書きが目立つ。

はて、いったい「ジェンダーフリー」という言葉は誰が使ってきたのだろう?そして「ジェンダーフリー」を実際に使ってきた人たちはどこへ行ってしまったのか?なぜ「使って来なかった」と明言する人たちが、使ってきた誰かを代弁するような形の論考が多いのだろうか。

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